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2009年9月

2009年9月29日 (火)

a03-卯回路-危機管理

A03●卯回路

卯年への回り道。略して卯回路。(ダジャレじゃないか〜!)ダジャレではありません。24時間愛せます!っちゅうのは、auのコマーシャルだ。最初は標識に奥行きをつけてみたのだが、どうにもこうにもバランスが悪く、諦めた。平板で少しも面白くない。虎に見立てた道路標識を入れてみた。虎模様でこれは良いアイデアだと考えたが、入れてみると蛇足という感じが否めない。何だか気に入らない。そもそも工事中の意味だし、縁起が悪いんじゃないかとも思えてしまうので、ここは無理矢理、整合性を取るためにタイトルを卯回路としてみた。どうだろうか。(こんなこと書いたら誰も使わないんじゃないか)

危機管理とマイナス思考を混同する人は多い。でも、もしもを考えて対策を取っておく事はとっても大切だ。少なくとも考えておけば、その場に及んで優柔不断にならずにすむ。決断は大事だが、勇猛果敢な決断をする為には、判断材料たる情報が必要だと思う。何も情報がないのに決断だけするのはギャンブルだと言えないだろうか。その為にもしもの悪い方を考えることを、マイナス思考と言われると、それは違うだろうと反論したくなる。

誰だってノーテンキに良い事だけ考えて、すすみたい。自分もどちらかと言えば物事をプラスにしか考えないタチだ。この場合降って沸いた悪条件に脆い。例えて言えば、サギにひっかかりやすいタイプとも言える。人を信じて疑わないと騙された時に負う傷が深いのと同じだ。人を常に疑うのも悲しいが、もしもそうだったらすっぱり諦めようと思っておく事で、きっと負う傷も浅くなる。

但し、自分一人なら諦めたでもすむが、多くの人に迷惑をかける場合、今度は無能だ、アホだと罵られる覚悟も必要になる。覚悟だけではすまない。慎重にならざるを得ない。自分にとって個人事業主だった何年か前までは全くなかった発想だ。自分が、俺がで良かった筈なのに、いつしか集団の事を考えなくてはならなくなった。身体が楽になったが、精神が苦しいこの頃だ。

話しを元に戻そう。だから一直線は危ない。多少の回り道も必要になる。リスクを回避しながら進んでいく。これはビジネスの常道だろう。そう考えると、バランスがイマイチだがこの年賀状も意味がある。リスク管理をうたう企業。危ない橋を渡らない会社にはぴったりの年賀状ではないか。これであなたの会社もリスクを…

24時間排せます。

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2009年9月16日 (水)

e02-判子と情報の伝達

E02●はんこ(スタンパー年賀)

これも毎年、定番のように入れている判子型年賀状だが、今年は少しだけカタチをかえた。例年は四角い判子だったのだが、今回は丸にした。意味はない。あと、出来るだけシンプルにしている。少しづつ手を入れている度にゴテゴテとして飾りが多くなった気がしたからだ。思い切り省いてスタンプ強調型となっている。本来スタンパーのかすれも表現したい所だが、リアリティを追求したら、写真にはかなわない。分かりやすくする為には常にどこかを省略する必要もある。


もともと判子やスタンプは、省略の見本みたいな存在である。線が細いとかすれる、太いと潰れる。過酷な条件の下で有る程度の太さで構成されたマークみたいなものだ。スタンパーや朱肉で押された印には有無を言わせぬ大きな力がある。しかも簡単な絵や文字でも伝わる情報量が意外に大きい。日本では各種証明書は、未だにハンを押したように、ハンを押せと言う(実に妙な表現だ)。判子の値打ちが廃れない。同じものを複製する目的にも関わらず、二度と同じものが出来ない。押す度に表情が変わる。力強く押された印、かすれた印、そこにはまるで押した人の意志までが再現されているような気がする。


意志や情報の伝達は、中間が介在する度に歪む。デジタルなら同じものを複製しても全く同じだが、アナログは歪むからアナログなのだ。デジタルデータを作る側が言うのもおかしいが、そこにデジタルとは違う味わいを感じる。出来るならば、そのまま使うのも良いが、年賀状のどこかにアナログな印を残して欲しいと思う。それが例え、手で添えた文字であっても、マーカーでなぞった線でも、指紋を押そうが、口紅塗ってキスマークつけても良い。何だって良いのだ。印刷された年賀状は同じ表情のクローンだが、ちょっとだけアナログにするだけで、味わい深い年賀状に変身する。

そもそも郵便ハガキは、電子メールが発達する前は、アナログの情報伝達の王様だった筈だ。その王様がデジタル一辺倒になるのは何だか忍びない。如何にデジタル社会になろうとも、血が流れる人間は決してデジタルになろう筈がない訳で、せめて個性を追加するのは人が人である証明みたいなものかもしれない。


是非是非、何かひとつでも良いので追加してやってください。


あと、自分はこうしているという面白い案があれば是非教えてください。

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2009年9月15日 (火)

e01-モノ作り大国日本は本当?

E01
●オーソドックス年賀状

一般用は常に奇をてらわない、オーソドックスに出来るだけ落ち着いたものをと心がけている。しかし市場に出回っているものと同じでは価値がない。どこかに違いが必要になる。虎の絵がまんま虎なのは我ながらいただけない。模様やカタチをデフォルメするとどうしてもマンガチックになる。デザイン年賀状と銘打っているので、もう少しデザイン的にデフォルメ出来ないか…と思ったが、諦めた。いかんせん発想力不足である。

どんな職業でもキャリアを積むと手慣れる。普通の人が何時間もかかるところを僅かの時間で終わらせてしまう。その差は何十倍もある。それはそれでひとつのウリではある。しかし、時間が早いだけでは、所詮コンピュータにはかなわない。単なる時間ではない質の面で絶対に追いつけない差をつけるのがプロのプロたる所以だ。自分でそれが今出来ない事がはらただしい。言い訳すれば自分はグラフィックデザイナーであり、イラストレーターではない。さらに、この数年は現場から離れ、グラフィックデザイナーの頭に「元」がつく。自戒を込めて言えば手慣れた分をさっさと時間短縮だけに使っているだけかもしれない。

プロの自負は強烈である。来るなら来い、かかって来い、絶対に負けない!位の気合いが必要だ。ともすれば鼻につくほど過剰なものだ。それはおそらく自分のしてきた事、やっている事、あるいは作り上げたものに絶対の自信があり、そのこだわりと独創性に裏打ちされた自信だろう。一体、何様のつもりやねん!と突っ込みたい位の職人をみる度に、そう思う。彼らはそれだけのこだわりと執念をもって仕事をしているのだと。さらに言えば、本物のプロの言葉は、腰が低くて丁寧だ。実るほど頭を垂れる稲穂の如く、物腰が柔らかい。負ける筈がないゆとりから生まれる言葉だろう。全く聞くこちらが頭を垂れてしまう。

日本はよくモノ作り大国だと言われる。本当にそうなのか。疑問に思う。品質が良い、丁寧、それは時間をかけて、そこから短縮すれば何とかなる話しだ。手慣れて時間を短縮しただけのモノ作りなら、いつか追いつかれる。誰もが考えつかない斬新な発想や、根底からこれまでの常識が覆るようなオリジナリティのある発想がなければ、追随を許さないモノ(カタチのないものも含めて)は出来ないのではないか。モノ作り大国ではなく発想の大国でなければならない筈だ。その発想を生み出す土壌が本当に日本にあるのか。真剣に考えると天を仰ぎたくなる。

その意味でモノ作り大国も、キャッチフレーズで勘違いするのではないかと心配だ。モノ作りが中国に行ったって構わないではないか。そもそも今の中国人の勤勉さや上昇志向のエネルギーに日本人は到底太刀打ちが出来ない。負ける勝負にこだわり続けると致命傷になる。単なる品質や丁寧さではない、圧倒的なオリジナリティで勝負する国になって欲しい。願わくば、発想の大国日本と言わずに黙っていても言われるようになって欲しいものだ。

私の会社の名はアイデア工房という。知的生産工場のサブキャッチがついている。30才の時に命名した。いまだに名前負けしている。でも常に名前がアイデンティティとなっている。今に見ていろ僕だって…と路傍の石のように考え続けている。しかし結果が出ない石ころのままの現状を思うと、思わず天を仰ぎたくなる。

すると、以前に吐いた不遜な言葉がつばとなって落ちてきている気がする。言葉でなんだかんだ言ってるうちは本物じゃないな…と痛感するのみである。

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2009年9月14日 (月)

d02-時の流れと干支の記憶

D02
●ゴルフ年賀状

前回の反省を元に書き殴りをやめた。今回はマウスで線を手作りして描いたのだが、毎度同じ事を繰り返していると痛感。結果としてタブレットで書き殴るよりも早く丁寧になる。毎年思って忘れる。学習効果が働かない。さて、ゴルフと言えば今は石川遼。一世を風靡している少年をテーマに描かない訳にはいかない。擬人化に関しては毎度の事ながら、動物をそのまま人間に見立てる。顔だけ動物にする方法がある。ここは好みの問題だが、どうにも胴体だけ人間で顔だけ動物の擬人化は、安直すぎて好きになれない。そこで今回も全身動物にしている。

ゴルフ好きの人はショットの後の軸がぶれて腰のラインが曲がっているじゃないか…と指摘したくなるかもしれない。だが、自分はゴルフをしない。そこは寛容になろうじゃないか。

デザイン年賀状を始めた頃は、まだ40代半ばだった。それから10年が過ぎ去った。あっという間の出来事だ。時の移ろいの速さを思い知る。年輩の人に受ける年賀状を…と言われる事も多いが、年輩って何歳からを言うのだろう。自分も充分年輩のうちにはいっているのではないか…。うちのサイトのファンは若い人より、どちらかと言えば40代50代が大勢を占めている気がする。毎年自分宛に送られてくる年賀状は同世代プラスマイナス10才が圧倒的だ。その世代だから律儀に送ってくるのか、それとも違うのか、確証がある訳ではない。もし同世代に受けているのならば、一緒に歳をとっている事になる。サイトはヘビから始まって、今年はトラ。後2年で1周する事になる。古くから使っている方にとってはきっと同じ思いに違いない。

その間に小学生低学年だった子供が、あっという間に一躍スターダムに乗り上げ、世界で活躍している。石川遼君の事である。こんな子供がいたら…の第1位はその石川遼君だった(当然と言えば当然かもしれないが、そんな願望はどあつかましいとも言える)その両親と同じ世代って事になるのだが、俺、その間、止まっていたのか…という位、同じ事をしている。情けないな〜。同じく小学生低学年だった少年のうちの息子は、あまりに普通だ。う〜〜ん、英才教育していなかったのが悪いのか、それともDNAが悪いのか…。おそらく後者に違いない。ちなみに子供は二人いるが全く絵は描けない。

記憶は普通は何かのキーワードと一緒にしまい込まれる。大事件であったり、流行った曲であったり、一瞬の風景だったりする。記憶を呼び覚ます手立てとして実に有効だ。9.11の事件もアメリカ人ならずとも、その時に何をしていたか、覚えているに違いない。年賀状の干支も同じ効果がある。12年前の記憶が絵柄と共に甦ってくるからだ。あの時どんな思いだったか、何をしていたか、感情までが再現される事も少なくない。

み〜〜〜〜んな、年末になって何でそんなに根性出して年賀状作るの?と問われたら、それは思い出を作る為さ…と答えるのも一興かもしれない。(…って、気取りすぎやな)

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2009年9月11日 (金)

d01-年賀状とは何だ

D01
●野球とタイガース

特にファンではないが、阪神タイガースに敬意を表して、タイガースファンに使いやすい年賀状とした。時間のせいにするのは卑怯だが、出来が悪く描き殴りのままアップする事を少しためらった。タブレットで画面を見ながら、手の向くまま気の向くままペンを動かすのだが、鉛筆で描くようにはなかなかいかない。だが描き直し出来るのがタブレットの最大の強みとなる。こういう時でないとタブレットをなかなか使わないのも事実だ。それでも自分の悪い癖がそのまま出てしまった絵だ。大抵みなクセをもっている。文字を書いてもそれがでる。そのクセを丁寧に消すと万人受けする絵になるはずだが、根が尽きた。最近現場から遠ざかっているからだろうか。良きにつけ悪しきにつけ絵に対する執着心がどんどんなくなっているのがよく分かる。(楽しんでいただいている方には大変申し訳ない)

タイトルはまるで石原慎太郎の青春とはなんだ(50代以降でないと分からないかもしれない)みたいなタイトルだが、毎年年賀状を量産していると自ずと疑問に思う。当然ながら答えはない。人によって違うからだ。手書きが良い、或いは義理だ、自己主張、自己満足、意味がないから出さない、或いは無用の風習だ。全てが正しいのだと思う。出さないというのもひとつの意志だからである。

その昔、自分も確かに若き一時期に出さない時があった。必要性がなかった。しかし、時代と共に古き友人とのコミュニケーションはなくなる。その時にたった1枚のハガキがつなぐ関係もあると痛切に思い知る年代となった。そもそも学生なんかは毎日顔を合わせる場がある。会社の同僚だってそうだ。わざわざ年賀状で挨拶しなくたって、いつでも合って話すのだから、ハガキで挨拶する必然性など全くない。

しかし、会社や学校、サークル、地域コミュニティなど、人と人をつなぐ線がなくなった瞬間、年賀状のような古き風習がいきなり意味を帯びてくる。かといって用事もないのに電話したり、ハガキは送らない。そこには大儀名文がいる。年賀状はそんな名文にぴったりはまる。物理的疎遠になった人に対して繋がるたった1枚の紙切れとなり、その紙切れが何枚かたまると、今度は相手の現状の推移が分かる。こんなものいらんと思う代表の子供の写真が入った年賀状すら、その子供が少しづつ大きくなっていく経緯をみるとともに、相手の苦労も察せられる。

実質、手紙やハガキなどはメールや電話にとって代わられ、今時必要な用事をハガキで出す人はまれに違いない。唯一年賀状や暑中見舞い、引越のお知らせなどが、残っているに過ぎない。

年賀状って何なのだろう。その答えはない。それは、出す人出さない人の数の分、それぞれの気持ちの中にあるからだ。

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2009年9月 7日 (月)

c02-アフィリエイト広告考

C02●タイガーマスク風

何の変哲もないデザインだ。正月や和風と言えば菱形。ただその菱形にトラを入れただけの特色のないものだが、この時期に素晴らしいアイデアなんて早々出てくるものではない。もう少し待ってもらえれば、土壇場に追い込まれて苦し紛れの怪しい年賀状デザインが出来るのではないかと思う。(…と信じている)

年賀状の発売時期だけは10月29日からと決まったそうだ。少しづつ年賀状の発売時期が前倒しになっている気がする。それだけ年賀状の販売が減ってきている事の証左かと思う。しかし考えてみれば、少子化で日本の人口は逆三角形になり、年賀状世代はどんどん鬼籍に入っていく。年賀状が廃れているのではなく、年賀状を出す人間が減っているのだから、発行枚数、発売枚数は減って当然とも言える。

年賀状は正月だけの風物詩である。正月に年賀状が届いて、人それぞれの消息や近況を確認しながら、年の移ろいを感じ取るのだ。なくても困らないが、なかったら誰もが寂しい。カンタンに廃れる事はない。何故なら、年賀状は郵便事業会社だけではない、様々な業界の利益を生み出す裾野の広い商品だからだ。印刷、出版、写真、プリンタ、パソコン、ソフト、筆記具、さらにそれを販売するチャネルも幅広い。その業界が互いにしのぎを削る。郵便事業会社が販促しなくても、年賀状関連ビジネスが年賀状に関する怒濤の宣伝を行う。急速にその文化がしぼむ筈がないだろう。

昔、ワープロがあった頃、毎年年賀状を出すだけの為にワープロを買い換えるような人もいた。1枚辺りどれだけ金をかけるねん…という程、年賀状に入れ込むかと言えば…そうでもなく、単純に面倒だからカンタンに作りたい、その一心でお金を使う。不思議なものだ。そのくせ、人と違うもの、自己主張はしたい、目立ちたい…など欲望は限りない。昔と今の最大の違いは、金をかけないで…が加わった事だろう。

その傾向にいくらかでも荷担している自分が言うのもおかしいが、タダで…という風潮にはどうしても賛成出来ない。インターネットではそれが顕著にでているが、何でもかんでも無料だ無料だといって経済がまわる筈がない。上から俯瞰したらそれがおかしい事は誰でも分かる。何を作っても、費用が発生するのは世の常だ。タダの場合、それを回収する仕組みがどこかに存在している。していなければおかしい。自分の場合は、それが最初は単なる自己満足や、カタルシスだったような覚えがある。しかし、それでは結局維持が出来ない。

結果、皆が分かるように似たようなアフィリエイトサイトが跋扈している。広告で元を取るって訳だ。年賀状のサイトも死ぬほど出てきたが、どれもこれも広告で儲ける事だけが優先していて内容は二の次三の次。これも早晩持たない事ははっきりしている。いずれ淘汰されるだろう。私自身はあまり広告を貼らない。広告で稼ぐことを良しとしていないからだ。良くないと言ってる訳ではない。私はどちらかと言えば広告を出稿する側にいる。だから広告効果に対して非常にシビアにならざるを得ない。広告主としてみるならば、到底無料の年賀状のサイトに広告を出稿する気になれない。あまりに費用対効果が悪いからだ。だから、そんな効果の薄い広告を表示する事に若干の抵抗がある。

広告を出稿している人なら分かると思うが、広告効果に関するレポートはどんどん充実している。インチキでもしない限り、効果のないサイトは自動的に広告収入が消滅する仕組みになってきている。事実、私はオーバーチュアやアドワーズの広告から効果のない無料サイトへの掲載を全て削除している。広告主だけではなくオーバーチュアやアドワーズ自体が効果がない事は自社にとって死活問題だから、さらに効果を高めるツールや効果のないサイトを排除していく傾向にあるのは間違いない。

最終的に無料だけをうたうサイトは広告以外の回収方法があるか、余程の魅力がない限り、存在できなくなるし、無料だけを求める人はそれなりのものしか手に入らなくなると思う。そうでなければならないし、それはごく自然な成り行きであり、本来のあるべき姿だろう…と信じている。

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2009年9月 3日 (木)

c01-浮世絵歌舞伎風

C01●浮世絵歌舞伎風

歌舞伎と言えば、プロレスファンにとっては高千穂しか浮かばないが、歌舞伎の独特の化粧、あの赤い色を黒にしたら虎に見えるんじゃないか…とふと思った。最初は歌舞伎の演技を絵に…とも思ったが、実際に歌舞伎を観たことがないのでよく分からない。そこで浮世絵を利用する事にした。最大の利点は著作権がないことだ。(我ながら実にセコイ動機だ)歌川国政の市川団十郎の絵である。(これも良く分かっていない)

顔が黄色いだけでどこが虎だ…とおっしゃるあなた。思いやりって言葉知ってます?ああ、なるほど〜、こういうことかな。善意に解釈すればそういうことかもしれないな〜〜…と、納得してしまうあれだ。この場合、相手に好意を持っていないと、なかなか善意にとれない。そこで…


まずは、私に好意を持つことをおすすめします。(何でやねん)


浮世絵と言えば、ゴッホやモネに影響を与えたのは有名だが、写実的な西洋画家がデフォルメの極致のような浮世絵に興味を持った事が面白い。現代ではアニメや漫画が世界を席巻しているが、その原型を浮世絵にみる思いだ。昨年、奈良で開催された浮世絵展に行った。奈良に行ったらたまたま展示会をしていたというのが正解だ。じっと観ていたがまるで漫画を見ているようだった。この文化の発祥の起源は何なのだろうと興味を持った。鳥獣戯画を持ち出されても古すぎてピンと来ないが、どこかに何でもデフォルメをする民族的な特徴があるのかもしれない。そう考えると、俳句も盆栽もデフォルメと言えなくもない。

考えればデザインだってデフォルメの一種だ。カタチや特徴を四捨五入し整える作業だ。デフォルメは実は物事の真理を捉える力が必要なので、カンタンのようでいて実は難しい。デフォルメの上手い人ほど、対象の特徴を捉える達人なのだろう。

しかし、そのデフォルメが行きすぎて、昨今、人の労働や給与までが四捨五入されている。切り上げられる分には問題ないだろうが、切り捨ては悲しい。そのうちに君はもう要らない…と社会から四捨五入されてはたまらない。年齢的に自分もそんな恐れを抱いたりするのである。そこで私は痛切に思うわけだ。政治家ではないが、国民に対して、まずは第一に…


私に好意を持つことをおすすめします。(何でやねん)

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